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金刀比羅神社の紹介

由緒・沿革

金刀比羅神社の由緒沿革

 当神社は長い歴史の過程の中で、「森の神社」としての歴史、「平氏ゆかりの神社」としての伝統、そして「こんぴら信仰に由来する神社」として多様な側面を持っています。

森の神社

 『常陸国風土記』によると、常陸国成立以前の太古には新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の六国に分立していたといいます。 当地方は茨城国といい、霞ヶ浦水運の要衝地にあって、当時の大和国から見て東の海を隔てた東国(あずまのくに)の開拓の中心地として最も早くから開けたところでもあります。

  当神社の古称である「森」「森木」「守木」は神社・神木・神垣の意をあらわし、古代神木祭祀の時代からの由緒ある神域であったことを伝えています。

平氏ゆかりの神社

 平安時代中頃に、桓武天皇の曾孫である平高望(たいらのたかもち)王から国香(くにか)・貞盛(さだもり)らが常陸大掾(ひたちのだいじょう)という官職を得て国府に着任して以来、そのまま土着して勢力基盤を築き上げると、平氏ゆかりの神社として森の祭祀が継承されるようになりました。
 森は「大森太明神」と尊称され、歴代の平氏の子女が祭主となって神役に勤仕していたと伝えられます。 また森には、森の祭祀に従事する平氏の御殿「森木殿」があり、神仏混淆であったその時代には森木寺や八大寺という寺院が付属していました。 天正18年(1590)、戦乱と兵火の中に巻き込まれて、森は壊滅し、六百有余年の長期間にわたって当地を支配していた常陸平氏も滅亡しました。
 その後、平氏の後裔である別当八大院によって神社が復興されております。

こんぴら信仰に由来する神社

 江戸時代になると、平村(現在の石岡市中心部)の鎮守として府中藩主松平家の信仰は殊のほか厚く、当神社に手厚い庇護と多大の崇敬を寄せられました。
 またその頃には、大物主神は仏教の守護神である宮毘羅(くびら)大将と同一神であり、現世で最も霊験あらたかな神様であると考える「こんぴら信仰」が全国に伝播拡大しました。当神社も「金毘羅大権現」として信仰を集めるようになっていました。
 文政10年(1827)に、あらためて讃岐国象頭山(香川県琴平山)の金毘羅大権現(金刀比羅宮)の御分霊を勧請し、こんぴら信仰のよりどころとなって多くの人々の参詣を集めて今日に至っています。

香取神社の歴史

 香取神社は、古くは茨城古国府や石岡外城があったとされる石岡市内の茨城カンドリの地に鎮座していたと伝えられています。
 鎌倉時代に石岡外城が築かれると、軍神として祭られました。その頃は森木殿の知行社でもありました。
 戦国時代末期の天正年間に森木の天王除地に遷座されたと伝えられます。天王除地は現在の金刀比羅神社境内の南側幅2間半。社殿の大きさは1間四方だったといいます。江戸時代には府中平村の天王祭の神輿の逗留する御旅所になっていました。
 明治39年(1906)に金刀比羅神社と合併し、御祭神である経津主神(ふつぬしのかみ)は金刀比羅神社本殿に合祀されました。
 香取神社跡地には、現在、仁平稲荷神社が鎮座しています。

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